どこもふこも

ネットの記事です

ハンターハンターの事ばかり考えてしまう

どうも最近、ハンターハンターの事ばかり考えてしまう。

 

何度も読み返しているハズなのに、読むたびに

「え?こんな設定だったっけ?」

と思うのは、ちゃんと読めてないか、読んでも理解していないかのどちらかだ。

たぶん、どちらもだ。文字数がすごいもん。しかもむずいし。

 

そこでyoutubeにある、考察系の動画を見てみた。

 

正しいか正しく無いかは置いておいて、物事を読み解く能力にたけている人達には素直に感心する。こういう解釈、要するに楽しみ方も出来るのか、と新しい視点が得られるのが良い。

 

漫画の中にある充分でない情報を、これまた十分でない情報と結び合わせて、仮説を立てていく訳だ。さらに、いろいろな媒体にある富樫先生の言葉を集めて来て、考察に活かすという手法は、信ぴょう性を高めるのには良い方法だと思った。

 

正解が何なのかは、富樫先生しかわからない。この、答えの無い状態での探索・探求を見ると、彼ら考察系youtuberは、現代のハンターと言えるのかもしれない。

 

とはいえ、そんな彼らの素晴らしい考察・予想を見ながら、そうかも知れないが、でもやっぱりそうとは言い切れないよね。と思えるのがハンターハンターのすごいところでもある。そのくらい予想がつかないし、簡単に裏切ってくれそうな漫画である。

 

もしこの後、読者や考察系youtuberの人達でさえ、たどり着いていないところに物語が帰結しだすと、ネット上は阿鼻叫喚になるだろう。再開するだけでお祭り騒ぎだろうし。

 

重要なキャラクターの一人であるジン曰く「狙った通りに獲物が動けばハンター冥利だろ?」との事なので、もしかしたら富樫先生は、読者の考察が膨らむことを狙ってやっているのかも知れない。

 

休載が続けば続くほど、ハンターハンターのブランドは高まっていく様に見える。

もしかしたら、これも狙い通りなのかも。

 

ハンターハンターが多くの読者を惹きつける理由に、

「万人受けするようにはしていない」と言うのがある様に思う。

 

受けるために、逆に読者を選別している。ついて来れない読者を待つことはない。作品全体が、もはやハンター試験のようでもある。そんな狭き門を抜け出た人たちだけが、その資格を得る。

 

3年も最新刊が出ないコミックスを並べてみる。途中で止まっているこの本は、新大陸紀行の東側だ。そう、まだ東側は書いている途中だ。

 

この続きが知りたければ、この時間を食う試験に耐えねばならないんだろう。

自分ではじめた事を2回目からもうやりたくない

いろんな人を巻き込みながら始めた新しい事を、一度やったらもう形が決まってきてしまうので、興味が無くなっていく癖をどうにかしたい。

 

形が決まってきてしまう事は、0から1にする事なので面白みを感じるのだが、1になった物を1.1とか1.0.1とかにしていく作業については、興味が持続しない。

 

立ち上げは楽しい。しかしその検証、継続性による成果の確認については、どうも心の中でどうでもいいと思っているようなところがある。

 

だから、第二回目の報告書を書くのが億劫で仕方がない。対して面白みも無い。真実と嘘を混ぜ込んで、文章量だけを増やす事に何の意味があるのだろうか。

 

この報告書に一体、何の意味があると言うのか!

 

そう叫んでみても、報告書を書かないとこの仕事はクローズしない。

 

だから諦めて報告書を書くよ。

 

ここは僕の思いの墓場だ

友人のHから、娘の一輪車教育でEに会ったと言われた。

 

Eは僕が昔からずっと好きだった人だ。

 

Eが結婚して、子供が3人いるという事や、結婚相手が良くない噂があった別の同級生だという事も知っていたが、そんなに遠くない場所に、生きて存在しているんだなぁと思うと、心中では動揺を隠しきれなかった。

 

いろいろな思いで、胸が詰まる。と言うやつだ。

 

Hは結婚相手の事の事を、その良くない噂しか知らなかったので、

思わずなんであんな奴と!?と言ってしまいそうだった。と言っていた。

そして、君と結婚すれば良かったのにね。とも。

相変わらず優しい奴だ。きっと僕の心中を察したのだろう。

 

僕は「結局、そういう事なんだろうね。(僕が好きだったEは、人を見る目が無いんだろうね)」とだけ言って話を流した。

 

この()の中の言葉は、僕の心に対して頭が言った言葉だ。

こう思おうとしたのだ。

 

だが現実的には、Eの結婚相手が県庁の公務員である事も聞いていたし、それがコネらしかったという事も知っている。

 

どうであれ、うだつの上がらない経営者の僕よりは、安定していると言えるだろう。

 

それに住んでいるところは新興住宅街だ。マイホームに住んでいるという事だろう。

 

だから、Eは人を見る目があるんだろう。

 

周りの評判が悪い人でも、きっと良い所を見つけて一緒になったんだろうし、子供を一輪車教室に通わせるくらいに余裕もあるんだろう。

 

という事で、僕が心に伝えた言葉は、ものすごい負け惜しみでしかなかった。

恥ずかしいし、なんだか涙が出そうだけど、受け入れるしかない。

 

知らなくてもいい情報を、偶発的に知ってしまっていても、

何かをする訳でも、何かを起こす訳でもない。そうすべきでもない。

 

僕は目の前にあるタスクをこなさなくてはならないし、

目の前にいる人達も幸せにしたいし、それで僕も幸せになりたい。

 

その僕の範囲には、Eや結婚相手は関係がないだけだ。

 

僕はこの淡い思いを殺したくなかった。

とっくの昔に過ぎ去った日々を、大事に取っておきたかった。

だから、Eについての現在のいかなる情報もいらなかったんだ。

何物にも代えられない、大切な思い出として心に取っておきたかった。

 

いい加減に、変わるべきは僕なんだろうな。

良い機会だから、ここに僕の思いを埋めて供養します。

 

RIP せめて良い夢を。

無責任という快感フレーズ

世の中には、問題があり過ぎると思いませんか。

 

右を向けば問題、左を向けば問題。

あ、でも最近あんまり爆笑問題は見ない。

サンジャポとか見ないしな。

 

なーんか思うに、物や情報に溢れているこの時代では多くの人が、「足りない事に飢えている」のではないだろうかと思うのです。

 

そういう人たちにとっては、何でもかんでもが、もうすでにあるような状態なので、この荒探しこそが「新しい事」だったり「クリエイティブ」な事だと勘違いしているのではないでしょうか。

 

物事の問題点を探して指摘するのって、ちょっと気持ちイイところがあると思いません?

 

誰かが長い時間と大きな労力をかけて作った何かについて、「これって、こういう問題があるんじゃないですか?」と指摘するのは、短い時間と小さな労力で行うような物なので、マウントを取れるというか、俺はすぐに気が付いたぜ!俺はお前らよりも優秀だぜ!的な感じになれるからじゃないかなと思います。

 

そういう視点ってのは、よりユーザーに近い目線であるとも言えます。

 

一方で、責任の無い立場からの好き勝手な言い分であるとも言えます。

 

こんな例えで説明してみます。

 

大人の皆さん、学生の頃ってなんであんなに楽しかったのだろうかって考えた事無いですか?

 

気の合う友達が周りにいて、好きな事を好きな時に好きなだけやったりして、うまく行っても失敗してもいい思い出になるという学生時代。最高ですよね!

なんで楽しかったと思います?・・・若かったから?

 

いいえ、僕の考えでは「責任が無いから」だと思います。

 

自分たちには明日が必ず来るという事を疑っていないあの勢い。

無責任さこそが、あの楽しい日々の根本にあると思います。

思えば平気で危険な事もしてましたよね。

でも、それで死んだり、問題になるような事はないと信じ切っていた。

 無責任ですね〜。

 

で、話を戻しますと、何かを指摘する時に感じる喜びってこれに近いんじゃないかと思うのです。

 

今、ご自分の抱えていらっしゃる「責任」の数を数えてみてください。

 

家族、仕事、お金・・・etc etc

 

それは幸せを運んでくれるものでもあります。

が、時たま「なんでこんな責任を負わないとならないんだろう」と思う事もあります。

 

以前、誰かに「責任」が多く成ればなるほど、その見返りも大きいんだ、という言葉を頂いた気がします。

 

僕も年齢を重ねる程に、何らかの新しい責任が増えていくような気がしています。しかし見返りはどこにあるのかを探そうとすると、絶望と言う壁が立ちふさがります。さらに周囲からは好き勝手言われて・・・。

 

こんな状況下ですので、責任が多くて重い人達はとても苦労しているでしょう。

 

この責任を感じている人達(ほとんどの人達がそうですが)は、

誰かの無責任を許せないような世の中になって来ています。

 

あ、もちろん大人であれば、無責任な行動は避けるべきですよ。

無責任でも良いって意味ではないです。

 

問題のある政治や、企業の不正や根拠のないサービスに対して、一斉に食って掛かってしまう事がありますね。ネットで炎上したりするのも、その一つかもしれません。

 

その時って心の中では「自分は責任を果たしているのに、こいつらは責任を果たしていない」と感じているような気がします。

 

ところが、責任と言うのは個人によって違います。

また、社会的な責任と個人的な責任も異なるものです。

大きな社会的な責任は個人が負えるものではないので、

問題を起こした個人を責めてもあまり意味を持ちません。

 

社会と個人の責任を混同する事の無い様にするべきです。

(※くどいようですが不正はダメ、絶対。)

 

だから、巷にゴロゴロと存在する根拠のないサービスをする企業に対して指摘する事は簡単かもしれませんが、無意味です。

 

間違っている、と言えばいいだけなので簡単に快感が得られるのですが、無駄です。

 

これからの時代、本当に必要な対応は、

そういった問題から目をそらす事かも知れないな。

と最近思うようになりました。

 

何度でも言いますが、

問題を見つけて指摘するという行為には、快感が伴うので辞めにくいです。

 

でも冒頭言ったように、世の中には問題があり過ぎるのです。

その問題に手当たり次第に構っていたら、あっという間に時間が過ぎてしまう。

そして気が付いたら、いい気になった自分だけが一人取り残されてしまうのではないか。そう思えて来ました。

 

だから、問題を指摘するという自慰行為から離れて、本当に集中すべき事に終始したい。

 

仮に、世の中に目に余るような問題があっても、それは結局のところ自然に淘汰される。いちいちオーバーリアクトして大騒ぎしようとするのは、限りある時間の無駄遣いである。でしょ?

 

この問題だらけの世の中で、今後どうやって生きるのか。

その一つが、情報の津波の中で、指摘したくなるような問題からはあえて目をそらす。

 

 有益な情報を選んで、調べて、自分のやるべき事に活かす。

これってライフハックになりませんか。

どこもふこも とは?調べてみました!

春めいた風が吹いて、僕の住む町にも黄砂が降ってきている。

 

いつもくっきり見える山々が、ガウスがかっている。

 

咲いたばかりの桜たちも黄色い風に揺れながら、息苦しそうだった。

 

車で銀行に向かう道すがら、信号待ちで止まった時、

ふと「どこもふこも」というワードが頭に浮かんできた。

 

はて、どこもふこも とはなんの事だったろうか。

思い出せない。

 

ぼんやりとだがなんかそんな名前の敵キャラが、何かのゲームでいたような気がしてきた。気になったので、わざわざコンビニに車を止めて検索したが出てこない。

 

銀行での用事を済ませ事務所に帰ってきてから、「どこもふこも」で画像検索した。

するとHIKAKINさんが愛猫の「もふこ」と映っている画像で、ディスプレイが埋め尽くされた。

 

突然の事に、しばし思考停止してしまう。

 

もふこは可愛い。いや、それよりも、HIKAKINさんは、僕にとって敵キャラだという事だろうか?たくさんの人を笑顔にし続ける彼を、googleは僕にとって敵であると?

 

そんなハズがない。僕はbeatboxだって練習している。むしろ彼側だ。仮に敵だとしても、僕が勝てる道理が無い。彼の方が数歳若い。

 

そもそも嫌だ、戦いたくない。でも戦わなくちゃ殺すぞ!と言われたら、立ち向かうかもしれない。だが、ほぼすべての国民が彼側につくだろう。ファンの子供たちからヘイトの対象になる。こんな何物でもないおじさんに、若い人の負の力が集まるなんて。

 

世の中にいじめが無くならないのは、いつの時代にも立場の強い人と、立場の弱い人間の双極が存在するからである。こんな負け戦、今すぐにサレンダーすべきだ。誰か助けて欲しい。誤解を解いて、温かい毛布とココアを僕に渡して欲しい。

 

どこもふこもの謎はまだに解けない。

 

あ、そういえば、あのゲームはSFC桃太郎伝説だった気がする。

早速、敵データを見る。インターネットは便利だ。

 

どこもふこも はいないが、どふもこふも はいた。

 

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どふもこふも

こいつだ。どふもこふもが正解だった。

良かった、HIKAKINさんやファンに嬲り殺しされずに済みそうだ。

 

ってか、 なんだこいつ。

次は、wikipedia先生に聞く。

 

どうやら日本の妖怪

ja.wikipedia.org

をモチーフにしているようだ。

 

名医2人が互いに腕自慢をして、自分の腕を切ってつないだり、頭を切ってつないだりしたが、決着がつかなかったので、2人同時に頭を切ったら最終的にどちらも死んでしまった。こうなったら どうもこうもならない という事で、生まれた妖怪らしい。

 

は?気が狂っている。何も理解できない。

 

どうして1つの身体に2つの頭の身体になってしまったのだろう。

誰かが見かねて2人の頭をつなげようとしたのだろうか。

それに、こいつは妖怪になって何をするのだろうか。

あと、桃太郎伝説のグラフィックでの再現率は、色だけだ。

でも、妖怪たちの晴れ舞台であるパレード百鬼夜行にも出ているようだ。

 

結局、なんなんだこいつ。 

 

なぜ天の啓示かの如く、この妖怪が頭に浮かんできたのだろう。

どうして、僕は今こいつと再会したのだろう。

 

その答えが知りたくて、僕はこのブログを どこもふこも と名付けた。

 

そもそも答えがどこかにあるのだろうか。

それに、どこもふこも では最初に間違ったままの名前だ。

こんな事でいったいこのブログに何を書くのだろう。

だがもうやってしまった。どうもこうもならない。